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日本列島の成り立ちがわかる場所

中央構造線は、西南日本を九州東部から関東へ縦断する日本最大の断層です。中生代白亜紀(約9,000万年前)のまだ日本列島がユーラシア大陸の一部だった時代に形成された横ずれ断層で、その様子は宇宙からの衛星写真でもはっきりと見てとれます。

約2,000~1,500万年前、日本海の原型となる湖ができて、やがてそれが広がり、日本列島が大陸から離れました。その時に東北日本には反時計回り、西南日本には時計回りの力が加わり、列島は扉が開くように引き裂かれたのです。この裂け目がフォッサマグナ、その西の境が糸魚川-静岡構造線です。

一方南の海では、火山の活動により伊豆・小笠原弧とよばれる火山島の連なりが誕生しました。南に下がってきた日本列島とフィリピン海プレートに載った伊豆・小笠原弧の島が次々に衝突しました。その力によって南アルプスの山々が隆起し、現在も年に4mm上昇しているのです。

杖突峠は、足下を中央構造線が通り、眼下には糸魚川-静岡構造線が横切る場所に位置します。太古の昔から現在へと続く地球の営みに思いを馳せて下さい。

参考:南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク攻略本

南アルプスジオパーク
https://minamialps-geopark.jp/

大鹿村中央構造線博物館
https://mtl-muse.com/

八ヶ岳周辺に広がる縄文の世界

八ヶ岳西南麓は、「縄文王国」といわれるほど数多くの縄文時代の遺跡が発掘されています。中でも茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」、中ッ原遺跡から出土した「仮面の女神」はユニークな造形が注目され、国宝に指定されています。

約5,000年前頃の縄文中期、この地域の気候は現在よりも温暖で、食料となるクリやクルミ、キノコや山菜が豊富にあったと考えられます。豊かな自然環境を背景に大規模な集落が築かれ、人口もピークに達していました。その文化は出土する大量の縄文土器から伺い知ることができます。一つ一つ個性的で美しい文様を持つ土器は、芸術品としても価値が高く、時を超えて私たちに語りかけてきます。

また北八ヶ岳から霧ヶ峰・和田峠にかけての一帯は本州最大の黒曜石の産地です。矢尻などの材料となる黒曜石は、旧石器時代から縄文時代の人々にとって、狩りを始め日常の生活に欠かせない大事な道具でした。上質な八ヶ岳近隣の黒曜石は珍重されたとみられ、関東一円はもとより北は青森県、南は奈良県の遺跡からも出土しています。

八ヶ岳山麓に花開いた縄文文化。杖突峠から見える景色の中に縄文の人たちの暮らしが広がっていたことを想像すると、なんだかわくわくしてきませんか。

尖石縄文考古館
https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/

まるごと信州 黒曜石ガイドブック
https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/bunsho/kassei/documents/new.pdf

杖突峠 戦国時代

上古の頃、信濃を貫いて北上していた古東山道は、伊那から杖突峠を抜けて諏訪に下り、大門峠、雨境峠を通って佐久に抜けていたといわれています。また、坂上田村麻呂が東征の折にここを通ったという伝承が残っています。

中世の古文書に杖突峠の記述が見え、この頃から杖突街道は軍用路になりました。戦国時代、武田信玄が諏訪を攻め、約40年間この地は武田の支配下に置かれました。

天正10(1582)年、織田軍が高遠城を攻めた際、森長可は諏訪大社上社に火をつけたあと、杖突峠から峰伝いに山室川へ抜け、正面から攻撃する織田信忠の軍と呼応して、搦め手から兵を進めました。挟み討ちにあった武田勝頼の弟、仁科五郎盛信は奮戦の甲斐なく無残な死を遂げます。この後武田氏は滅亡し、織田信長は杖突峠を越えて諏訪に入りました。諏訪の法華寺で戦功褒賞を行なった折、信長は明智光秀に衆人環視の中で恥をかかせ、欄干に光秀の頭を押しつけて叩いたといいます。2カ月後、本能寺の変で天下はひっくり返りました。

峠の茶屋展望台からは、戦国の舞台となった上原城、桑原城、高島城などを偲ぶことができます。峰々を繋いで狼煙が上がり、武士たちが峠を駆け抜けて行った、信玄や信長がこの峠に立って軍略を練ったかも…、などとロマンが膨らみます。

参考:峠への挽歌 滝沢忠義著 (ほおずき書籍)
   定本 信州百峠 (郷土出版社)